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香港の大陸化は避けられないのか?東アジアシリーズ【第4回:香港(前編)】

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1997年にイギリスから中国に香港が返還されてから、間もなく19年が経過します。香港の自主性を尊重し、また大陸化(中国本土化)に馴染むための準備期間として返還後50年間は、「一国二制度」つまり香港に特別措置が講じられてきました。しかし、実際には香港はかつての自由度を失いつつあり、中国の一部として中国化が進んでいることが鮮明となりつつあると言えるでしょう。

特に、過去30年において、中国が急速に経済発展を遂げ、上海などが金融市場として成長してきたことから、経済の先進地域であり、金融市場として発展してきた香港の優位性が薄れてきたことは否めません。

それでは、連載第4回の今回、第5回の次回の2回にわたり、政治・経済両面において、香港で進む大陸化の実情を探りつつ、今後の香港が歩む道を考えてみましょう。

東アジアシリーズ【第5回:香港(後編)】はこちら

 

 

▼目次

英国領から中国へ

英国の中国進出の歴史は、18世紀にさかのぼります。東インド会社を中心に、英国企業がお茶、絹などを一方的に買い付けました。その結果もたらされた貿易不均衡の解消に英国が持ち込んだのがアヘンです。19世紀なかばのアヘン戦争を挟み、英国は植民地経営にいそしむのですが、同時期に、現在国際的に認知されている香港上海銀行(HSBC)が設立されました。

ちなみに、英国資本の象徴であるHSBCは、香港返還を前に本社をロンドンへ移しました。その後、この銀行はM&Aにより巨大化し、現在では1万店舗を有して世界の大地方銀行といった様相を呈しており、同時に、中国ビジネスにおける存在感は金融界において今も際立っています。

香港はこの200年、英国と中国の狭間で漂ってきました。香港はようやく元の鞘、つまり中国の一部に回帰すると言っても良いでしょう。5千年の歴史を有する中国の歴史の物差しからすると、この200年の出来事、つまり英国の進出、99年の租借(外国領土内のある地域を借りて、一定の期間、統治すること)、そして50年の一国二制度などは、「一炊の夢」(栄華のはかないこと)だったということかも知れません。

香港が返還されて以降、一国二制度は一応機能してきたとも言えますが、大陸化が進んでいるのも事実です。その例が、5年に一度行われる、香港特別行政区のトップである行政長官の選挙に見ることができます。これまで、立候補者(被選挙人)や投票者(選挙人)が限定されるなど、北京政府の意向が強く反映され、自由な選挙から程遠い状態が続いてきました。

実際、立候補は中国当局の同意が必要であり、投票権は親中団体のみに与えられる仕組みとなってきました。そのため香港の人々の不満は強く、普通選挙を求めてのデモが繰り返し実施されているのです。しかし、「一国二制度」は残存年数が減るにつれ徐々に風化し、今や香港の大陸化は鮮明となってきたと言えるでしょう。

 

高まるナショナリズムと中環占拠

ところでこのところ香港でのデモ行動が再三報道されています。お蔭でかつて香港に駐在していた筆者は馴染みの風景を懐かしく見ています。とは言え、その記憶は30年以上も前のことで、香港が自由に溢れていた時代のことです。1997年に香港が返還されて以降、中国4大銀行の高層ビルが建ち並ぶなど中国資本の進出は目覚ましく、大きく変貌を遂げています。

返還のショックを緩和するために、過渡的措置として採用された「一国二制度」は、自由と民主主義を標榜する香港に、50年におよぶ大幅な自治権を認めましたが、外観のみならず内実も大陸化が進んでいる感は否めません。

この大陸化への危機感から、2014年の香港では、行政長官の選挙への不満が募り、反政府のデモ行動が起こりました。高度な自治が認められている香港では、2017年の香港特別行政区行政長官選挙から「普通選挙」が導入される予定だったのですが、中国の全国人民代表大会常務委員会は、これを覆したことを契機にしています。

加えてこれに先立ち、香港政府は義務教育に、北京の政府に対する愛国心を育成するカリキュラムを加えようとしており、これに対し学生からは「それは洗脳教育だ」と、強い反発があったことも背景となっています。

このように、香港に忍び寄る大陸化への危機感に対し不満が爆発し、「中環占拠」、つまり金融の中心地である中環地区(セントラル)を占拠しようとのスローガンを掲げて抗議行動に至ったのです。

フランス革命以降の約200年におよび、世界的にナショナリズムが高まった結果、現在200ほどの「国民国家」が作られました。一方で、その何倍、何十倍もの民族と言語が存在することから、これまでの「国民国家」の概念では整理できない問題が噴出しています。

その一例が、300年前の王国への回帰を望む声が高まった、スコットランドの独立運動であり、宗主国ロシアへの郷愁が高まり内乱状態となっているウクライナと言えるでしょう。香港も、北京政府への求心力が高まる一方で、遠心力が強く作用していると言えるのではないでしょうか。

 

南シナ海の領有権問題

香港島の南部は、南シナ海に面し風光明媚な海岸線が続いています。アヘン戦争の後、英国人がこの地域を気に入り、故郷の地名を付けては住んだのです。その代表が映画「慕情」の舞台となった、レパルスベイやアバデイーンでしょう。

ところが、この南シナ海は今や中国が内海と主張し、フィリピン、ベトナム、マレーシア、ブルネイなど、周辺国と領有権争い緊張が高まっています。

中国はもともと遊牧民族に接し、その対応に腐心する「大陸国家」であり「海洋国家」ではありませんでした。ただ、中国5千年の歴史において、北辺が安定していた時代にその例外が見られます。クビライ時代の元寇、明・永楽帝の時代の鄭和による東アフリカへの大遠征。さらに清の康熙帝の台湾への遠征です。そして現代に至り、ソマリアの海賊対策、マレーシア機の探索など、海洋でのプレゼンスを高めているのです。

この海域の領有権は、仏に支配されていたベトナム、米西戦争でスペインから米国に移管されたフィリピンなど、19世紀の西欧各国の進出の歴史が絡み合い、問題は複雑です。2003年、この水域で中国機が米軍機と接触し墜落したことを発端に、米中の緊張が高まったのです。

それから十年。ウクライナでのロシアの領土拡大に刺激を受け、南シナ海の全てを核心的利益だとする中国。かたや、外交・軍事面で世界の信頼を回復し、国家威信の低下を食い止めたい米国。この両国の応酬は、日に日に激しさを増しています。ウクライナの火の粉はいつ南シナ海へ飛び火するかも分かりません。香港は、改めて地政学リスクの大きな海域に面していることを忘れるわけにはゆきません。

 

まとめ

返還後の過渡的措置として導入された一国二制度も、期間50年のうち、19年が経過しました。残り31年となった今、香港では大陸化と自由度の喪失への恐れが強まっていますが、今後も残りの期間が少なくなるにつれ様々な場面で緊張が表面化することでしょう。

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